こんにちは。風読珈琲店のカエデです。
桂離宮の洗練された庭園や、教科書でおなじみの「風神雷神図屏風」。これらが生まれたのは、江戸幕府の体制が固まりつつあった17世紀前半、寛永文化と呼ばれる時代です。桃山文化の華やかさと、後の元禄文化の成熟の間に位置するこの時代は、京都の宮廷・上層町人が育てた優雅な文化として、独特の存在感を放っています。
この記事では、寛永文化がどんな時代背景で生まれ、どんな人物・作品を残したのかを、建築・美術・書といったジャンルごとにわかりやすく解説します。教科書で名前だけ見た「桂離宮」「風神雷神図屏風」「本阿弥光悦」が、実はどんな人間関係やドラマの中でつながっていたのかを知ると、京都の街の見え方も少し変わってくるはずです。
200万冊が読み放題となるKindle unlimitedへの登録はこちらから!
大学生なら6カ月無料体験可能!Prime Studentへの登録はこちらから!
寛永文化とは?――宮廷と上層町人が育てた雅の文化

寛永文化は、寛永年間(1624〜1644年)を中心に、後水尾天皇・明正天皇の時代に栄えた文化です。江戸幕府の支配体制が固まりつつあったこの時期、京都では朝廷・公家や上層町人を担い手とする、桃山文化の名残を残しつつも落ち着きのある文化が花開きました。一方、江戸では武家を中心とした儒教的な文化が育ち始めており、京都と江戸、それぞれの場所で異なる性格の文化が同時に育っていったのも、この時代の面白いところです。
時代区分としては、豊臣秀吉の時代を中心とする桃山文化と、5代将軍・徳川綱吉の時代の元禄文化のちょうど中間に位置します。桃山文化の豪壮さがやや落ち着き、まだ元禄文化ほどの町人文化の爛熟には至っていない、いわば過渡期の文化ともいえますが、その分だけ独自の静謐さや洗練を感じさせる作品が多く生まれました。
寛永文化を語るうえで欠かせない出来事が、1626年(寛永3年)の「寛永行幸」です。2代将軍・徳川秀忠と3代将軍・徳川家光の招きに応じて、後水尾天皇が二条城に行幸しました。行列は天皇・公家、幕府方をあわせて約9,000人、馬540頭、輿470基という空前の規模で、内裏を出発した先頭が二条城に到着しても、最後尾はまだ内裏を出ていなかったと伝えられるほどです。5日間にわたって舞楽や能楽、和歌の会が催されたこの行幸をきっかけに、朝廷と幕府の文化的な交流が一気に深まり、寛永文化が本格的に花開いていきました。
もっとも、後水尾天皇と幕府の関係は、常に穏やかだったわけではありません。行幸の翌々年にあたる1629年には、幕府の許可なく高僧に紫衣(高い格式を示す衣)を与えたことが問題視される「紫衣事件」が起こり、後水尾天皇はまだ幼い皇女・明正天皇に位を譲って上皇となりました。政治的な緊張をはらみながらも、後水尾上皇はその後も長きにわたって文化のパトロンであり続け、上皇となってからのほうがむしろ、文化人としての存在感を増していったとも言われています。
桂離宮――数寄屋造りが到達した美の極み

寛永文化を代表する建築が、京都・西京区にある桂離宮です。後陽成天皇の弟にあたる八条宮智仁親王が、1620年頃から1624年頃にかけて創設したとされる別荘で、のちに智仁親王の子・智忠親王の代にさらに整備が進められました。茶室建築の技法を取り入れた「数寄屋造り」という、装飾を抑えながらも洗練された建築様式を採用しており、飛石や灯籠、手水鉢に至るまで細部に美意識が行き届いています。
現在「中書院」と呼ばれる建物が1641年(寛永18年)頃に整備された際には、狩野探幽・尚信・安信の3兄弟が障壁画を手がけました。桂離宮は建築・庭園・絵画が一体となった総合芸術として、後の時代の建築家たちにも大きな影響を与え続けている、まさに寛永文化を象徴する存在です。
桂離宮の造営には、江戸幕府の茶道指南役であり作事奉行も務めた小堀遠州も関わったとされています。遠州は千利休・古田織部と続いた茶の湯の系譜を受け継ぎながら、王朝文化の優美さを取り入れた独自の美意識「綺麗さび」を打ち立てた人物です。武家の茶と公家の美意識を橋渡しするような存在だったからこそ、幕府と朝廷の双方から重用され、桂離宮や二条城、名古屋城など、この時代を代表する建築・造園に携わることができたのでしょう。
後水尾上皇はさらに後年、洛北・比叡山のふもとに修学院離宮も造営しており、桂離宮とあわせて、寛永文化が育てた王朝美意識の到達点として並び称されています。着工は1653年(承応2年)と、寛永の元号こそすでに終わった後ですが、後水尾上皇という同じ担い手のもとで育まれた美意識という点では、寛永文化の延長線上にある仕事だと捉えられています。

俵屋宗達と「風神雷神図屏風」――琳派の源流
寛永文化を代表する絵師が、俵屋宗達です。京都で扇絵などを手がける工房「俵屋」を営んでいたと考えられており、出自の詳細は多くが謎に包まれていますが、後水尾天皇からも高く評価され、朝廷の絵師に与えられる「法橋」の位を授かっています。
宗達の代表作が、国宝「風神雷神図屏風」(建仁寺蔵)です。金地の画面いっぱいに、躍動感あふれる風神・雷神を大胆な構図で描いたこの作品は、後の尾形光琳や酒井抱一によって模写・再解釈され、「琳派」と呼ばれる装飾的な美術の流れの源流となりました。宗達自身は「琳派」という言葉が生まれるよりずっと前の人物ですが、その大胆な構図と装飾性は、時代を超えて多くの絵師たちに影響を与え続けています。
宗達は本阿弥光悦とも協働しており、光悦が書を書き、宗達が下絵を描いた「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」のような作品も残しています。長い巻物いっぱいに金銀の泥で鶴の群れが飛び立ち、舞い、降り立つ様子を宗達が描き、その上に光悦が三十六歌仙の和歌を太細をつけた躍動的な筆致でしたためるという、書と絵画それぞれの分野の第一人者が一つの作品の中で共演する贅沢な仕事です。こうした共作が生まれたこと自体が、寛永期のサロン的な文化の豊かさを物語っていると言えるでしょう。
本阿弥光悦と鷹峯――芸術村がめざした理想郷

もう一人、寛永文化を語るうえで欠かせないのが本阿弥光悦です。刀剣の鑑定・研磨・浄拭を家業とする本阿弥家に生まれた光悦は、書・陶芸・漆芸など、驚くほど幅広い分野で才能を発揮しました。書の分野では、近衛信尹・松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」に数えられ、独自の「光悦流」の書風を確立しています。工芸分野の代表作としては、国宝「舟橋蒔絵硯箱」が有名で、『後撰和歌集』の和歌をモチーフにした、大胆に盛り上がった独特の造形が見どころです。
寛永の三筆のもう一人、近衛信尹は五摂家の一つ・近衛家の当主という高い身分にありながら、闊達で力強い書風で知られています。もう一人の松花堂昭乗は、石清水八幡宮の社僧という立場で、茶の湯や絵画にも通じた文化人でした。公家・僧侶・町人という異なる出自の3人が並び称されたこと自体、身分を超えて美意識が共有されていた寛永期らしい現象だと言えるでしょう。
1615年、大坂夏の陣の直後、光悦は徳川家康から京都・洛北の鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や職人、町人たちとともに移り住んで芸術村「光悦村」を築きました。単に住むだけでなく、工芸・書・信仰が結びついた共同体としての性格を持っていたとされ、寛永文化が単なる「宮廷の趣味」にとどまらず、職人や町人を巻き込んだ広がりを持っていたことを示す好例です。
光悦村には蒔絵師や筆屋、紙屋といった様々な職人が集まり、腕を競い合いながらも協力し合う環境が生まれました。刀剣の鑑定という家業を通じて、武家・公家を問わず幅広い人脈を持っていた光悦だからこそ実現できた、当時としては珍しい「芸術家コミュニティ」だったと言えるでしょう。現在も鷹峯には、光悦にゆかりの深い光悦寺が残されており、竹を交差させた「光悦垣」と呼ばれる独特の垣根や、紅葉に彩られる参道の美しさで、京都でも屈指の紅葉スポットとして親しまれています。
後水尾天皇ゆかりの品々や寛永期の文化人については、当ブログでも展覧会記事として紹介しています。あわせてご覧ください。

まとめ
- 寛永文化は寛永年間(1624〜1644年)を中心に、後水尾天皇の時代に京都で栄えた文化
- 1626年の「寛永行幸」(後水尾天皇の二条城行幸、参列者約9,000人)が文化興隆の大きな契機に
- 建築の代表格は桂離宮――数寄屋造りの粋を集めた総合芸術
- 絵画では俵屋宗達の「風神雷神図屏風」が、後の琳派の源流に
- 本阿弥光悦は書・工芸で活躍し、鷹峯に芸術村「光悦村」を築いた
- 近衛信尹・松花堂昭乗・本阿弥光悦は「寛永の三筆」と称され、身分を超えて美意識を共有した
戦国の気風を残す桃山文化と、爛熟した元禄文化の間で、静かに独自の美意識を育てていった寛永文化。京都を訪れる機会があれば、桂離宮や建仁寺など、当時の空気を感じられる場所にも足を運んでみてはいかがでしょうか。宮廷、大名、僧侶、町人と、立場の異なる人々が入り混じりながら一つの美意識を育てていった様子は、現代のクリエイティブなコミュニティにも通じるものがあるように感じます。
200万冊が読み放題となるKindle unlimitedへの登録はこちらから!
大学生なら6カ月無料体験可能!Prime Studentへの登録はこちらから!

