こんにちは。風読珈琲店のカエデです。
「凍れる音楽」と称される薬師寺東塔、若々しい表情が魅力の興福寺仏頭、極彩色の高松塚古墳壁画——飛鳥文化と天平文化のあいだに位置しながら、意外と名前を知られていない白鳳文化(はくほうぶんか)について、その時代背景と代表的な文化財をわかりやすく解説します。歴史の教科書ではさらりと流されがちな時代ですが、掘り下げてみると見どころの多い時代です。
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白鳳文化とは?——律令国家の若々しいエネルギー

白鳳文化は、天武天皇・持統天皇の時代(7世紀後半〜710年の平城京遷都まで)を中心に栄えた文化です。飛鳥文化(6世紀末〜7世紀前半)に続き、天平文化(8世紀)に先立つ、いわば両者をつなぐ「橋渡し」の時代にあたります。「白鳳」という元号は正史には見えない私年号ですが、美術史・文化史の分野では慣用的にこの時代を指す言葉として広く定着しています。
この時代は、壬申の乱(672年)を経て即位した天武天皇のもと、「日本」という国号や「天皇」という称号が定着し、律令国家の建設が本格化した時期と重なります。国家体制が整っていく勢いそのままに、文化の面でも生き生きとした若々しさ・力強さが感じられるのが白鳳文化の特徴です。中国・唐や朝鮮半島との交流を通じて、大陸の新しい様式が積極的に取り入れられた点も見逃せません。
天武天皇はまた、日本最古の正史とされる『日本書紀』や、現存最古の歴史書『古事記』の編纂を命じたことでも知られています。国家の成り立ちを記録として残そうとする意識が高まったのもこの時代の特徴で、律令・都城・歴史書・仏教美術と、あらゆる面で「国のかたち」を整えようとするエネルギーに満ちていました。文化と政治が分かちがたく結びついていた点も、白鳳文化を理解するうえで欠かせない視点です。
- 時代背景:天武天皇・持統天皇の治世、律令国家建設の時期と重なる
- 雰囲気:飛鳥文化の硬さと天平文化の成熟のあいだにある、若々しく躍動的な様式
- キーワード:薬師寺、興福寺仏頭、高松塚古墳、遣唐使
薬師寺東塔——「凍れる音楽」と称される名塔

白鳳文化を代表する建築が、奈良・薬師寺の東塔です。天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って発願したと伝わる薬師寺は、その後藤原京から平城京への遷都にともなって現在地に移されましたが、東塔だけは創建当初の姿を今に伝える、数少ない白鳳建築の遺構とされています。
高さ約34メートルの三重塔でありながら、各層に小さな屋根(裳階・もこし)を重ねているため、六重塔のようにも見えるのが特徴です。この上下にリズミカルに連なる屋根の律動感は、20世紀初頭に来日した哲学者アーネスト・フェノロサによって「凍れる音楽」と評され、以来この愛称で広く親しまれるようになりました。
薬師寺には東塔と対をなす西塔もありますが、こちらは戦国時代に焼失し、1981年に古式にのっとって再建されたものです。創建当初から1300年以上そのままの姿で残る東塔と、鮮やかな色彩で蘇った西塔が並び立つ境内は、時の流れの長さを実感できる貴重な景観になっています。2020年には東塔の解体修理が完了し、両塔が再びそろって美しい姿を見せるようになったことも話題になりました。
興福寺仏頭——若々しい微笑みをたたえた仏像の顔

白鳳彫刻を語るうえで欠かせないのが、興福寺(奈良)に伝わる仏頭(ぶっとう)です。もともとは685年、飛鳥の山田寺に安置された薬師三尊像の本尊でしたが、1187年に興福寺の僧兵によって強奪され、後に本体を火災で失いながらも、頭部だけが東金堂の本尊台座の下に納められて650年以上も静かに眠っていました。1937年、本尊の解体修理の際に偶然発見され、白鳳彫刻の傑作として一躍脚光を浴びることになります。
丸みを帯びた頬、伸びやかな眉、かすかにたたえた微笑み——この仏頭が放つ若々しく生命力あふれる表情は、厳格さが際立つ飛鳥仏や、写実性を極めた天平仏とも異なる、白鳳彫刻ならではの魅力とされています。数奇な運命をたどってきたこの一体は、今も興福寺国宝館で間近に見ることができます。
興福寺仏頭とあわせて語られることが多いのが、法隆寺夢殿の本尊として伝わる救世観音像や、同じ白鳳期の作とされる薬師寺金堂の薬師三尊像です。薬師三尊像は、中尊の薬師如来を中心に日光菩薩・月光菩薩が脇を固める金銅像で、柔らかな肉付けの中にどっしりとした安定感をたたえた、白鳳彫刻の完成形ともいえる作品です。これらの仏像を見比べると、同じ白鳳期のなかでも表現の幅広さがあったことが感じられます。
高松塚古墳壁画——極彩色が伝える国際交流の記憶

絵画の分野で白鳳文化を象徴するのが、奈良県明日香村にある高松塚古墳の壁画です。1972年の発掘調査で発見されたこの壁画は、石室の壁に東西南北を守護する四神(青龍・白虎・朱雀・玄武、ただし朱雀は盗掘の際の破損で失われている)と、色鮮やかな衣装をまとった男女群像が極彩色で描かれています。
その画風は、お隣の高句麗(朝鮮半島)の古墳壁画との共通点が指摘されており、白鳳期の日本が東アジア諸国と活発に交流し、多様な文化を柔軟に取り込んでいたことを物語る貴重な史料となっています。同時期の法隆寺金堂壁画(1949年の火災で大部分焼損)も、インドのアジャンター石窟群や中国・敦煌の石窟壁画の様式を受け継いだ傑作として知られ、白鳳文化がいかに国際色豊かな時代だったかを物語っています。
高松塚古墳壁画は発見当初、教科書にも大きく取り上げられるほどの一大発見として話題になりましたが、その後の保存管理をめぐっては、カビの発生など長年にわたる課題も抱えてきました。現在は石室を解体し、壁画を修復した上で保存・公開する取り組みが進められています。1300年以上前の色彩をどう未来へ残していくかという課題は、文化財保護のあり方そのものを考えさせられるテーマでもあります。
遣唐使が運んだ、東アジアとの活発な交流
白鳳文化の国際色豊かな性格を支えたのが、遣唐使や遣新羅使を通じた東アジアとの活発な交流です。630年に始まった遣唐使は、白鳳期にも数次にわたって派遣され、律令制度や仏教美術、さらには最新の学問や技術を日本に持ち帰る重要な役割を果たしました。唐は当時、玄奘三蔵がインドから経典を持ち帰るなど仏教文化が爛熟していた時代であり、その様式が海を越えて日本の仏像や建築にも色濃く反映されています。
朝鮮半島の百済・新羅・高句麗との関係も見逃せません。とくに663年の白村江の戦いで倭国・百済連合軍が唐・新羅連合軍に敗れたことで、多くの百済の技術者や知識人が日本に渡来しました。彼らがもたらした建築・仏像制作の技術は、白鳳文化の仏教美術に大きな影響を与えたと考えられています。ひとつの国だけでなく、複数の文化が同時に流れ込んでいたことが、この時代の様式の多様さにつながっているのです。
敗戦という大きな痛手を経験したにもかかわらず、白鳳期の日本がその後さらに国際交流を深め、活発な文化受容を続けたという事実は興味深いところです。外圧をきっかけに国家体制の整備を急ぐ一方で、文化の面ではむしろ開放的な姿勢を強めていった――そんな柔軟さも、この時代を語るうえで見逃せないポイントといえるでしょう。
白鳳文化について、もっと知るなら
白鳳文化のあと、聖武天皇の時代には仏教美術がさらに花開く天平文化へと発展していきます。あわせて、天平文化についてまとめた記事もぜひご覧ください。

白鳳文化ゆかりの奈良の仏教美術は、秋の奈良で開催される展覧会でも見ることができます。あわせてチェックしてみてください。

まとめ
- 白鳳文化は、天武天皇・持統天皇の時代(7世紀後半〜710年)を中心に栄えた、律令国家建設期の若々しい文化
- 薬師寺東塔は「凍れる音楽」と称される、数少ない白鳳建築の遺構
- 興福寺仏頭は、山田寺から伝わった白鳳彫刻の傑作。650年以上眠っていたのち1937年に発見された
- 高松塚古墳壁画は、極彩色の四神・人物像を通じて、当時の国際交流を今に伝える
飛鳥文化と天平文化のあいだで、名前だけならなんとなく耳にしたことがあるという人も多い白鳳文化。実際の文化財を知ってみると、律令国家として歩み始めた当時の日本の勢いが伝わってくるはずです。教科書では数行で片付けられがちな時代ですが、東塔や仏頭のような具体的な文化財を知ってから眺めると、その存在感の大きさに驚かされます。奈良を訪れる機会があれば、ぜひ薬師寺や興福寺にも足を運んでみてください。
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