「現代脳科学の基礎と応用」講義の後編です。前編では、脳の全体像や保護システム、細胞レベルの情報伝達、そして視覚・聴覚をはじめとする感覚システムについて学びました。しかし、脳の役割は情報を受け取るだけではありません。得られた情報に基づき、意思を持って外の世界に働きかけ、また自分自身の体内環境を適切に維持・調整することも、脳の極めて重要な役割です。

まずは、私たちの「行動」を支える筋肉の制御メカニズムと、生命維持の基盤となる自律神経・内分泌系による調整機能について解説します。
本記事でご紹介している内容は、こちらの書籍をベースにしています。気になった方はぜひ手に取ってみてください。
- 外の世界へのはたらきかけ:筋肉と運動の基本
- 反射:脳を通らない瞬時の制御
- 脳による運動の高度な制御
- 体の中へのはたらきかけ:自律神経系
- 内分泌系のコントロール:視床下部と下垂体
- 運動制御の回復:脳のリハビリテーション
- 脳の機能局在論の歴史と論争
- 「左脳・右脳」の役割分担とその真実
- 分離脳の研究が教えてくれたこと
- 言語の中枢:話す、聞く、読み書き
- 言語と思考:概念の形成
- 現代脳科学が捉える「全体としての脳」
- 記憶の分類:時間による区分
- 長期記憶の多様な形態
- 「考える」ための記憶:作業記憶(ワーキング・メモリー)
- 記憶の固定化と海馬の役割
- 脳の可塑性:配線が変わる仕組み
- 睡眠と記憶の切っても切れない関係
- 脳の発達:遺伝と環境の相互作用
- 脳の感受性期(臨界期)
- 代表的な脳の病気とそのメカニズム
- 脳疾患の画像診断:CTとMRI
- 脳のリハビリテーションと機能回復
- 前編・後編の講義の締めくくり
外の世界へのはたらきかけ:筋肉と運動の基本
私たちは、動き回ることで周囲の環境と関わり、外の世界に働きかけます。この「動き」を物理的に生み出しているのが筋肉です。教科書では、体の中へのはたらきかけの多くが無意識におこなわれる調節機能であるのに対し、外の世界へのはたらきかけは「意思」に基づくと定義されています。
骨格筋の構造と収縮の仕組み
私たちの手足を動かす筋肉は骨格筋と呼ばれます。人体には約400個の骨格筋があり、体重の約30%を占めています。骨格筋は、複数の核を持つ細長い「筋細胞(筋線維)」が束になったものです。 筋細胞の中にはさらに細い「筋原線維」があり、そこには「アクチン」と「ミオシン」というタンパク質のフィラメントが規則正しく並んでいます。筋肉が縮むとき、これら2つのフィラメントが互いに滑り込むことで全体の長さが短くなります。この滑走を制御しているのがカルシウム・イオンであり、神経からの信号が届くとカルシウムが放出され、筋肉の収縮が始まります。
運動単位:制御の最小ユニット
筋肉を動かす指令を出す細胞は、脊髄の「前角」にある運動細胞です。1つの運動細胞が、枝分かれしていくつかの筋細胞につながっています。この「1個の運動細胞と、それにつながる筋細胞のセット」を運動単位と呼びます。 指先や眼球のように精密な動きが必要な部位では、1個の運動細胞が支配する筋細胞の数は少ないですが、足のように大きな力を必要とする部位では、数百本もの筋細胞を1つの運動細胞が担当しています。
反射:脳を通らない瞬時の制御
私たちの体には、大脳の意思(意識)を介さずに、刺激に対して自動的に反応する反射という仕組みが備わっています。
伸張反射と筋紡錘
最も単純な反射が伸張反射です。筋肉の中には「筋肉の伸び」を感知する筋紡錘(きんぼうすい)というセンサーがあります。筋肉が急に引き伸ばされると、筋紡錘からの信号が脊髄に入り、その筋肉を収縮させる運動細胞に直接伝えられます。 有名な「膝蓋腱(しつがいけん)反射」は、膝の下を叩くことで大腿四頭筋が急に伸び、それが刺激となって筋肉が収縮し、足が跳ね上がる現象です。このとき、反対のはたらきをする筋肉(拮抗筋)をリラックスさせる「相反性抑制」も同時に働いています。
屈曲反射:危険からの回避
熱いものに触れたときに思わず手を引っ込める動きは屈曲反射です。これは痛みや熱などの危険な刺激から体を守るための多シナプス性反射です。刺激を受けた側の屈筋が収縮して手足を引っ込めると同時に、反対側の足では体を支えるために伸筋が活動します。
脳による運動の高度な制御
反射のような単純な動きを超えて、私たちは目的を持った複雑な運動を行います。これを制御しているのが大脳皮質の運動野です。
1次運動野と体の地図
大脳の中心溝のすぐ前方にあるのが1次運動野です。ここには全身の筋肉に対応する「体の地図」が描かれています。感覚野の「ホムンクルス」と同様、精密な動きが必要な顔や手の指の領域は、脳の非常に広い面積を占めています。
複数の運動野の連携
運動に関わる領域は1次運動野だけではありません。その前方には、運動の計画や準備を担う運動前野や補足運動野、前補足運動野などが存在します。これらは「運動連合野」とも呼ばれ、視覚情報に基づいて運動を組み立てたり、過去の記憶から運動の順序を構成したりする役割を担っています。 さらに、大脳の深部にある大脳基底核や、脳幹の背側にある小脳が、これら運動野と連携して、運動の開始・停止、スムーズな調整、姿勢の維持などを意識に上らないレベルで行っています。
ミラー・ニューロン:運動の「概念」
近年注目されているのが、前頭葉の運動前野(F5領域)で発見されたミラー・ニューロンです。この細胞は、自分が運動するときだけでなく、「他人が同じ運動をしているのを見たとき」にも活動します。これは、他者の行動の意図を理解したり、模倣によって学習したりする基盤になっている可能性が指摘されています。
体の中へのはたらきかけ:自律神経系
外の世界への働きかけと並行して、脳は体内環境を一定に保つための調節も行っています。これが自律神経系です。自律神経系には、正反対の働きをする2つの系統があります。
交感神経と副交感神経の拮抗支配
- 交感神経: 活動時や緊張時、あるいは危険から逃れる「闘争か逃走か」の状況で働きます。心拍数を上げ、気管支を広げ、筋肉への血流を増やします。
- 副交感神経: リラックスした状態や睡眠中、あるいは消化吸収を促進するときに働きます。心拍数を下げ、胃腸の働きを活発にします。
ほとんどの臓器はこの両方の支配(二重支配)を受けており、天秤のようにバランスを取ることで、刻一刻と変わる状況に体を適応させています。
内分泌系のコントロール:視床下部と下垂体
脳による体内環境の調整は、神経信号だけでなく、化学物質である「ホルモン」を通じても行われます。
神経内分泌の司令塔
内分泌系のコントロールタワーは、間脳にある視床下部です。視床下部は自律神経の中枢であるとともに、そのすぐ下にある下垂体を支配しています。視床下部の神経細胞が血管の中に直接ホルモンを放出する「神経内分泌」という方法で下垂体に指令を出し、そこから全身の標的器官(甲状腺、副腎、生殖器など)へと第2の指令が送られます。 これにより、摂食、飲水、体温維持といった生命維持に不可欠な機能(ホメオスタシス)が保たれています。
運動制御の回復:脳のリハビリテーション
脳が損傷を受けた場合でも、残された機能を活用して回復を図ることができます。
脳の可塑性と地図の書き換え
高次機能を担う大脳新皮質の神経細胞は、成人後にはほとんど新生しません。しかし、訓練(リハビリテーション)によって、脳内の「地図」を書き換えることが可能です。 例えば、指を動かす1次運動野の一部が損傷しても、手先の運動訓練を繰り返すことで、周囲の生き残った領域がその機能を肩代わりし、地図が再構成されることが動物実験で確認されています。この回復の裏側では、神経細胞のネットワークの変化、つまり「シナプスの新生や伝達効率の向上」が起きています。
脳の役割は、身体を動かし、内部環境を調整するだけにとどまりません。ここからは、脳の高次機能の代表格である「言語」と、私たちが論理的に物事を組み立てる「思考」、そして世間一般でも関心の高い「左右の脳の役割分担」について、その科学的な真実に迫ります。
私たちの脳は、単に外の世界を受容し、運動を出力するだけの装置ではありません。得られた情報を「概念」として整理し、「言葉」という道具を用いて高度な思考を巡らせることで、人間特有の文明を築いてきました。これらの機能が脳のどこで、どのように行われているのかを、歴史的な症例や最新の知見をもとに解き明かしていきます。
脳の機能局在論の歴史と論争
脳の特定の場所が特定の機能を担っているという考え方を「機能局在」と呼びます。この考え方が確立されるまでには、長い論争の歴史がありました。
19世紀前半、フランスのフローレンスは、脳をどこまで破壊しても機能が全体的に弱まるだけで、特定の機能が失われることはないと主張する「全体論」を提唱し、当時の主流となりました。これに対し、ドイツの解剖学者ガルは、精神特性は脳の表面に局在し、その発達が頭蓋骨の隆起に現れるという「骨相学」を唱えましたが、これは科学的根拠を欠くものでした。
この論争に決着をつけたのが、1860年代のポール・ブローカによる発見です。彼は、言葉が話せなくなった患者の脳を解剖し、特定の部位に損傷があることを突き止めました。これを機に、脳はバラバラの部品の集合ではなく、特定の役割を担った領域が密接に連携して働くシステムであるという、現代の機能局在論の基礎が築かれたのです。
「左脳・右脳」の役割分担とその真実
一般に「左脳は論理、右脳はイメージ」と言われますが、科学的にはどのように理解されているのでしょうか。
対側支配と連合野の役割
脳の感覚系や運動系には、左の脳は右半身を、右の脳は左半身を支配するという対側支配の原則があります。視覚においても、右の視野は左脳で、左の視野は右脳で処理されます。
しかし、認知や思考を担う高度な領域である「連合野」では、この対側支配の原則が薄れてきます。連合野の細胞の多くは、左右の境界を越えて反対側の世界もカバーできるようになるため、片方の脳半球だけで外の世界全体を扱うことが可能になります。その結果、左右の脳が半分ずつを分担する必要がなくなり、半球ごとに異なる機能を特化させるという新しい役割分担(側性化)が生まれました。
論理脳とイメージ脳
分離脳の研究などから、ヒトの左脳は言語的・論理的・分析的な思考や計算を得意とし、右脳は非言語的・直感的機能、空間的操作、音楽的な能力に優れていることが明らかになりました。そのため、左脳は「論理脳」、右脳は「イメージ脳」と呼ばれることがあります。
左右の協力関係:リンゴの皮むきと石器づくり
重要なのは、私たちは通常どちらか一方の脳だけで生きているわけではないという点です。例えば、リンゴの皮をむく際、右手(左脳)は包丁を細かく動かしますが、左手(右脳)はリンゴを支え、適切な角度に回すという空間的な調整を担っています。この両者の絶妙な協力があって初めて、皮をむくという目的が達成されます。
同様の役割分担は、古代の人類が石器を作っていた際にも見られます。左手で石(素材)の角度を微調整し、右手でハンマーとなる石を振り下ろすという動作は、まさに空間イメージ(右脳)と実行(左脳)の連携です。現代人もまた、常に左脳と右脳のバランスを取りながら活動しており、「右脳を重点的に鍛えるべき」といった極端な議論には科学的根拠が乏しいと言わざるを得ません。
分離脳の研究が教えてくれたこと
左右の脳の役割分担を劇的に示したのが、ロジャー・スペリーらによる「分離脳」の研究です。
重症のてんかん治療のため、左右の脳をつなぐ太い神経線維の束である「脳梁(のうりょう)」を切断した患者では、左右の脳が独立して活動するようになります。 例えば、分離脳の患者の左視野(右脳)に「雪景色」を、右視野(左脳)に「ニワトリの足」を見せ、それぞれに関連する絵を選ばせる実験が行われました。患者の左手(右脳)は雪かき用の「シャベル」を選びましたが、言葉を司る左脳は「ニワトリの足を見た」と答えます。なぜシャベルを選んだのか問われると、左脳は「シャベルは鶏小屋を掃除するのに必要だから」と、自分が知らない右脳の行動に対して、辻褄を合わせるような理由を後付けしたのです。
この研究は、左脳が意識的な言語理解と論理的解釈を担い、右脳が空間的・直感的な判断を行っていることを明確に示すとともに、脳梁がいかに密接に左右の情報を統合しているかを教えてくれました。
言語の中枢:話す、聞く、読み書き
人間を人間たらしめている言語機能は、左脳(利き手に関わらず多くの人で左脳)の特定の領域に局在しています。
言葉を話す中枢:ブローカ野
1861年、ブローカが出会った患者「タンさん」は、他の知能は正常で言葉も理解できましたが、自分では「タン、タン」としかしゃべれませんでした。死後の解剖により、左前頭葉の下前頭回にある領域が損傷していることが判明しました。ここが「運動性言語野(ブローカ野)」です。この部位が障害されると、言い表したいことが表現できなくなる「運動性失語」が起こります。
言葉を理解する中枢:ウェルニッケ野
1874年、ウェルニッケはブローカ野とは異なるタイプの失語症を発見しました。この患者は流暢に話しますが、言葉の意味が支離滅裂で、他人の話も理解できませんでした。損傷していたのは左側頭葉の上側頭回にある領域で、ここが「感覚性言語野(ウェルニッケ野)」です。
読み書きの中枢:角回と縁上回
文字の読み書きは、人類が進化的、あるいは個人の発達過程で後天的に獲得する高度な機能です。
- 角回(かくかい): 頭頂葉の下部にあり、視覚的な情報(文字)を言語的な情報に変換する役割を担います。ここが損傷すると、文字が読めなくなる「失読」が起こります。
- 縁上回(えんじょうかい): 角回の前方にあり、言語音の処理や書字に関わります。 興味深いことに、日本語の「漢字」の読み書きには、左側頭葉下部などの領域も関わっていることが報告されています。
言語と思考:概念の形成
私たちは言葉を使って考えますが、その前提となるのが「概念(カテゴリー)」の形成です。
個別的な知覚からの飛躍
目の前にある「赤いリンゴ」「青いリンゴ」「小さいリンゴ」は、物理的な刺激としては異なりますが、私たちはそれらをすべて「リンゴ」という一つのグループ(概念)として認識します。この、個別の特徴の違いを超えて共通点を見出す過程には「飛躍」が必要です。脳内では、側頭連合野の神経細胞が、特定の対象(例えば顔や手)に特異的に反応することで、概念の形成を支えています。
言葉による思考の操作
ヒトは獲得した概念に「言葉」を当てはめることで、頭の中で高度なシミュレーションを行うことができます。次々と概念が湧き起こり、それらが相互に関係づけられていく運動過程こそが「思考」です。
動物も「思考」するか?
動物は言葉を持ちませんが、特定の「手」や「顔」に反応する「認識細胞(手ニューロン・顔ニューロン)」を持っていることがサルの研究から分かっています。彼らもまた、視覚的な概念を駆使して、仲間の識別や行動の判断を行っており、言葉を介さない形の「思考」を行っていると考えられます。
現代脳科学が捉える「全体としての脳」
機能局在が確立された現代においても、脳の各部位が独立した部品として動いているという見方は正しくありません。
近年のPETやMRIを用いた研究(例えば作業記憶の課題遂行時)では、感覚系から運動系、そして前頭連合野に至るまで、極めて広い領域の細胞が同時に、かつ双方向に情報をやり取りしながら活動していることが示されています。 「話す」という単純な動作一つとっても、ウェルニッケ野で内容を構成し、ブローカ野で運動プログラムを作り、運動野が筋肉を動かすという連携が必要です。
脳はバラバラの部品の集合ではなく、領域ごとに専門性を持ちながらも、全体として密接に連携して働く一つの有機的なネットワークなのです。
言語や思考、左右の脳の役割分担といった高度な精神活動を支えているのが、「記憶」と、経験によって脳の配線が変化する「脳の可塑性(かそせい)」です。私たちは、朝食に何を食べたかといった些細な出来事から、自転車の乗り方、言葉の意味まで、膨大な情報を保持しています。脳はどのようにしてこれらを記録し、また、必要に応じて取り出しているのでしょうか。ここでは、記憶の分類、記憶を司る脳部位、そして脳がみずからを作り変える驚異的な仕組みについて詳しく解説します。
記憶の分類:時間による区分
記憶を理解する最も基本的な方法は、その「持続時間」に注目することです。
短期記憶:意識の作業台
短期記憶は、数秒から数分程度の極めて短い期間だけ保持される記憶です。その容量には限界があり、同時に留めておける事項は5〜9個(平均7個)程度と言われています。 短期記憶の特徴は、非常に不安定で「干渉」に弱いことです。例えば、電話番号を覚えようとしている最中に誰かに話しかけられると、すぐに忘れてしまいます。この記憶を維持するためには、頭の中で繰り返し唱える「リハーサル」という作業が必要です。
神経細胞のレベルで見ると、短期記憶は「神経細胞の持続的な電気活動」によって保持されています。側頭連合野や前頭連合野などの細胞が、記憶が必要な間だけ活動電位を出し続けることで、情報が心に留め置かれます。
長期記憶:知識の貯蔵庫
一方、長期記憶は、数日から数年、時には一生涯にわたって保持される記憶です。短期記憶とは異なり、こちらは「神経回路の特性の変化(配線の組み換え)」として脳に物理的に刻み込まれています。 私たちは日常の出来事の大部分を忘れてしまいますが、強い印象に残ったことや、繰り返し学習したことは長期記憶へと転送されます。
長期記憶の多様な形態
長期記憶は、その内容の性質によってさらに細かく分類されます。
宣言記憶:言葉で説明できる記憶
自分の意志で思い出し、言葉で表現できる記憶を宣言記憶と呼びます。
- エピソード記憶: 「昨日の夕食に何を食べたか」といった、特定の日時や場所に関連した個人的な経験の記憶です。
- 意味記憶: 「日本の首都は東京である」といった、個人的な経験とは無関係な知識や事実の記憶です。
手続き記憶:体で覚えた記憶
手続き記憶(非宣言記憶)は、自転車の乗り方や楽器の演奏、箸の使い方など、いわゆる「体で覚えた」記憶です。これらは意識しなくても自動的に引き出されるのが特徴で、健忘症の患者であっても、この手続き記憶は比較的よく保たれる傾向にあります。
「考える」ための記憶:作業記憶(ワーキング・メモリー)
近年、脳科学で極めて重要視されているのが作業記憶(ワーキング・メモリー)です。これは単に情報を一時保持するだけでなく、その情報を加工・操作して、理解や判断、推論を行うためのシステムです。
例えば、スーパーで「今日の夕食はカレーにしよう」と決める場面を考えてみましょう。このとき、脳内では「目の前の肉の値段」という新しい情報と、「冷蔵庫にある野菜の在庫」や「カレーの作り方」という長期記憶から引き出された情報が同時に保持され、それらが関連付けられて判断が下されます。 この複雑な操作の司令塔となっているのが前頭連合野です。前頭連合野が損傷されると、情報の保持や順序の整理が困難になり、複雑な思考を伴う課題の成績が著しく低下します。
記憶の固定化と海馬の役割
記憶がどこで作られ、どこに蓄えられるのか。この謎を解く大きな手がかりとなったのが、HMさんという有名な症例です。
HMさんは重度のてんかん治療のため、脳の深部にある海馬とその周辺を切除しました。手術の結果、発作は治まりましたが、彼は「新しいことを全く覚えられない」という深刻な記憶障害(前向性健忘)に見舞われました。彼は先ほど会った医師の顔を忘れ、トイレへの道順も覚えられませんでしたが、知能テストの数値は正常で、手術以前の古い記憶や、新しい「手続き記憶」の習得は可能でした。
このことから、海馬の役割について以下の重要な事実が判明しました。
- 海馬は、新しい出来事を長期記憶として固定化する過程に不可欠である。
- 海馬自体が長期記憶の「貯蔵場所」ではない(古い記憶は残っているため)。
- 長期記憶の本体は、情報の処理を行っている大脳皮質全体に分散して保存されている。
カナダの脳外科医ペンフィールドは、手術中に側頭葉を電気刺激すると、過去の光景が生き生きと蘇る現象を報告しました。これは、大脳皮質の回路そのものに記憶が刻まれていることを示唆しています。
脳の可塑性:配線が変わる仕組み
脳がコンピュータと決定的に異なる点は、使用されることによって「ハードウェア(配線)そのものが変化する」という特性を持っていることです。これを脳の可塑性と呼びます。
シナプスの変化:スパインの驚異
記憶の物理的な実体は、神経細胞同士の接合部である「シナプス」の伝達効率の変化にあります。 よく使われる回路では、樹状突起にある小さな突起である「スパイン(棘)」の数が増えたり、形が太く短くなったりします。太いスパインは電気信号をよりスムーズに伝えるため、回路の接続が強化されるのです。 逆に、使われない回路ではスパインが減少し、伝達効率が低下します。
シナプス発芽
また、日本の脳科学者である塚原仲晃教授らは、特定の神経が損傷した際、別の神経が新しい枝を伸ばして空白の接続を埋める「側枝発芽」という現象を証明しました。マウスに手先の作業を訓練させると、対応する運動野のシナプス数が有意に増加することも確認されています。このように、学習とは脳の中に新しい物理的な回路を作り上げることなのです。
睡眠と記憶の切っても切れない関係
「寝る子は育つ」と言いますが、脳科学の視点からは「寝ることで記憶は定着する」と言えます。
特にレム睡眠(体が眠り、脳が活動している状態)は、長期記憶の形成に決定的な役割を果たしています。イスラエルの研究者サギらによる実験では、新しい視覚課題を訓練した後、レム睡眠を意図的に妨げると、翌日の成績が全く向上しないことが示されました。 学習した成果は、睡眠中に脳の中で整理・統合され、大脳皮質の回路へと固定化されます。したがって、試験前の徹夜は短期記憶には有効かもしれませんが、確かな知力として長期記憶を形成するためには、十分な睡眠が不可欠です。
後編の締めくくりとして、脳が生涯を通じてどのように変化し、どのような不調に見舞われ、そして損傷に対してどのように回復しようとするのかという、脳の「一生」と「再生」に焦点を当てます。
私たちはこれまで、脳の構造や機能、情報伝達の仕組みについて学んできました。それらの集大成として、発達段階における環境の重要性、代表的な脳疾患のメカニズム、そして最新の画像診断やリハビリテーションの科学的根拠について解説します。
脳の発達:遺伝と環境の相互作用
脳の発達は、遺伝情報の展開という側面と、外部環境からの刺激による修正という側面の、絶え間ない相互作用によって進みます。特に脳は他の臓器に比べ、環境要因が発達に与える影響が極めて大きいのが特徴です。
胎生期からの学習
驚くべきことに、脳の変化は出生前、胎児の段階からすでに始まっています。ラットの実験では、胎内の胎児に特定の匂いを学習させることが可能であることが示されています。また、ヒトの新生児が母親の声を好んで選択するという研究結果は、生まれる前に胎内で聞いた声を脳がすでに記憶し、回路を形成していることを示唆しています。受精後5週目ごろから脳の基本構造が形成され始め、4ヶ月を過ぎるころには大人の脳に近い配置へと急速に発達していきます。
大脳皮質の形成とコラム構造
大脳皮質が作られる過程では、脳室付近で生まれた神経細胞が、放射状グリア細胞の突起をガイドにして脳の表面へと移動します。この移動により、皮質表面に対して垂直な方向に神経細胞が積み重なり、情報の処理単位である「コラム構造」が形成されます。
脳の感受性期(臨界期)
脳には、特定の機能を発達させるために適切な刺激を必要とする「感受性期(臨界期)」と呼ばれる決定的な時期があります。
視覚における感受性期
視覚機能の発達には、この時期の正常な視覚体験が不可欠です。感受性期にある子ネコの片目を閉じて育てると、その目に対応する大脳皮質の領域(眼球優位コラム)が縮小し、開いている目に対応する領域に侵食されてしまいます。この変化は成熟した個体では起こりません。同様に、特定の傾きの線や動き、色に対する認識能力も、この時期の視覚環境によって形成されます。
高次機能の感受性期
視覚のような基本的感覚だけでなく、言語習得や絶対音感、楽器演奏に必要な運動技能などの高次機能にも感受性期が存在します。例えば、言語の習得には14〜17歳ごろまでが重要であるという報告があります。感受性期には、脳内でシナプスが過剰に作られ、それらが刺激によって競い合い、整理されることで効率的な回路が構築されます。
代表的な脳の病気とそのメカニズム
脳は堅牢な頭蓋骨と血液脳関門(BBB)に守られていますが、一度障害を受けると深刻な影響を及ぼします。
脳卒中(脳血管障害)
日本の死因や「寝たきり」の原因の上位を占めるのが脳血管障害です。
- 脳出血: 高血圧などが原因で血管が破れ、脳実質内に出血します。
- くも膜下出血: 脳を覆う膜の間にある「くも膜下腔」で出血が起こります。激しい頭痛を伴うのが特徴です。
- 脳梗塞: 血管が詰まって血流が途絶える病態です。動脈硬化による脳血栓や、心臓などからの血栓が飛んでくる脳塞栓などがあります。
脳の変性疾患:パーキンソン病
特定の神経細胞が徐々に死滅していく変性疾患の中で、特に関心が高いのがパーキンソン病です。中脳の「黒質」にあるドーパミン産生細胞が脱落することで、安静時の震え(振戦)、筋肉のこわばり(筋固縮)、動作の緩慢(無動)、姿勢反射障害といった特有の症状が現れます。
認知症
後天的な要因で知的機能が低下した状態を指します。
- アルツハイマー病: 大脳新皮質の広範な神経細胞の脱落と萎縮が見られ、記憶障害や失見当識が主な症状となります。
- レビー小体型認知症: 幻視や大脳基底核の異常を伴うのが特徴です。 生活習慣病の管理や、脳を使い続けることが予防や進行抑制に重要です。
脳疾患の画像診断:CTとMRI
現代の脳科学において、脳の状態を外側から可視化する画像診断技術は不可欠です。
- CT(コンピュータ断層撮影): X線を用います。簡便で撮像時間が短いため、頭部外傷や脳出血の救急診断に第一選択として使われます。
- MRI(磁気共鳴イメージング): 強い磁場を用います。CTよりも解像度が高く、脳梗塞や脳腫瘍の細かな診断に適しています。神経線維が集まる「白質」を鮮明に描き出すことができます。
脳のリハビリテーションと機能回復
脳の神経細胞は、成人後には大脳新皮質では新生しません。しかし、脳には「可塑性」があり、残された細胞が新しいネットワークを作ることで失われた機能を補うことができます。
回復のメカニズム
末梢や脳の一部が損傷しても、適切な訓練(リハビリテーション)を行うことで、周囲の生き残った領域がその機能を肩代わりし、脳内の「地図」が再構成されます。動物実験では、手先の運動訓練によって運動野のマップが変化し、神経細胞1個あたりのシナプス数が増加して伝達効率が向上することが証明されています。
前編・後編の講義の締めくくり
前編・後編の全2回を通じて、私たちは脳という「豆腐のような柔らかい臓器」が、いかに緻密な電気信号と化学物質のネットワークによって私たちの心や行動を支配しているかを学びました。
脳は固定された装置ではなく、学習や経験、そしてリハビリテーションによって、一生を通じて変化し続ける「可塑性」に満ちた存在です。現在の脳科学でも解明できていない謎は多く残されていますが、基礎研究によって得られた知見は、病気の治療や教育、そして人工知能の開発といった形で私たちの社会に還元されています。
皆さんがこの講義で得た知識が、自分自身の脳を大切にケアし、人間の知性の不思議さに興味を持ち続けるきっかけとなれば幸いです。
気になった方は、ぜひ実際に読んでみてください。

